重信房子は大菩薩峠からパレスチナへ

 学生のデモは素手からヘルメット、ゲバ棒になった。やがて火炎瓶や鉄パイプに取って代わられたが、警察力の増強がそれを上回った。軍事的突破口を開くため、赤軍派は「前段武力蜂起」を打ち出した。しかし、準備段階の訓練で壊滅的な弾圧を受ける(大菩薩峠事件)。
 前出の赤軍派の元メンバーが続ける。赤軍派の国際拠点論は、そうした苦境から考え出された政策であった。海外の革命的な国で訓練をして、日本に帰ってくるというものです。その最有力候補がキューバであった。一握りのグループが革命を成し遂げた、そのキューバに自分たちの姿があった。キューバから戦艦で帰ってくるという話もあった。しかし、私たちがアプローチしたキューバ大使館は、「あまりにも空想的だ」とその考えを否定した。
 それでも赤軍派はこの路線に乗り、70年3月、「よど号」をハイジャックした。しかし、会長の塩見は事件の直前に逮捕され、他の幹部も次々と逮捕、抹殺された。
 残ったのは、後に連合赤軍事件の中心人物となる森恒夫、重信ら準幹部たちであった。森は日本での武装闘争に目を向けたが、重信は国際拠点化の路線を選び、袂を分かつ。
 選んだ先はパレスチナである。なぜパレスチナなのか。当時『世界革命運動情報』の発行に携わっていた松田正雄は、生前「私の影響です」と語っているが、その経緯は明らかではない。
 しかし、同行者はすでに赤軍派に属していたわけではない。同行者に選ばれたのは、元京大全共闘の奥平毅氏である。奥平は当時、京大助手の滝田修(竹本信弘)らを思想家とする「京都パルチザン」に所属していた。奥平は重信のプロポーズに同意した。二人は、警察からマークされていた重信の名前を変えるために婚姻届を出した。
アラブ諸国の国家元首クラスと面会できる立場で
 偶然目の前に転がってきたボールを拾うか、それとも他人のものとして黙ってやり過ごすか。それが運命を分けることもある。
 重信に「国際テロリスト」の称号を与えたのは、1972年5月、イスラエルのロド国際空港で起きたリッダ闘争(テルアビブ空港銃撃事件)であった。奥平ら3人の日本人青年が治安当局と銃撃戦を繰り広げ、巻き添えになった観光客を含む計26人が死亡した。
 奥平は射殺、京都大学の安田泰幸は手榴弾で自爆、鹿児島大学の岡本公三は拘束された(現在レバノンに亡命中)。
 この事件は、日本赤軍の署名として語り継がれているが、重信にとっては「転がり込んできた玉」であった。しかし、重信にとっては、この事件に重信や赤軍派の関与はなく、「転がり込んできたボール」であった。
 1971年冬、奥平と重信はパレスチナ軍が拠点とするレバノンの首都ベイルートを訪れ、左翼組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の門をたたいた。奥平はハイジャックなどを行う非公開の海外作戦部、重信は広報部に配属された。奥平は訓練を受け、PFLPと決戦のための計画・準備を始める。
 日本を発つ直前、奥平は重信の要請で赤軍派に名前を貸した。しかし、これは形式的なもので、この作戦にも呼ばれたのは、京都のパルチザンの仲間たちであった。パルチザンは、全共闘の生き残りで、赤軍派を含む前衛党派とは一線を画した無政府集団であった。彼らは、無数の小集団(5人組)による共闘革命を夢想していた。
 リッダ闘争は、その国際版であり、無名の国際的有志の活動として策定されたものであった。そのため、声明文は作成せず、安田は自分の正体を隠すために自分の顔を吹っ飛ばしたほどである。
 作戦準備に携わった京都パルチザンの一人、檜森孝雄(2002年焼身自殺)は、遺稿集『地平線の彼方』で「奥平は一度も赤軍派の路線やスローガンを口にしなかった」と述懐している。また、同時期に連合赤軍事件で拘束された青戸幹男も、この事件のニュースを聞いて、アン